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週報一覧

No.09  2021年9月14日号

前週の報告①

☆2021年9月7日(火)第1332回 
 ZOOM例会
司  会  髙井 敏郎 SAA
点  鐘  永井 幸寿 会 長

前週の報告②

会長報告

今日はうれしいお話があります。
当クラブの高橋昭彦会員のことです。ずっと,ズームでの参加だったので,ご多忙なのかな,コロナ予防かな,程度しか理解していませんでした。ところが,コロナ禍において大変な社会貢献をされていることがわかりました。
現在コロナ感染者が急増して医療が逼迫しています。これは,病院でのコロナ患者の受入がなかなか進まないことにもよります。ただし,病院ならどこでも受け入れができるわけではありません。例えば,山中先生の新長田眼科病院、眼科専門病院では受入は当然できないわけです。また,内科、外科でも、受け入れはリスクが高いです。①医療関係者自身が感染する恐れがある。②陰圧機の設置やコロナ対応のエリアのゾーニングのため等高額の費用がかる、③患者の減少により売り上げが減退する。④スタッフが退職する等です。
 発熱(多くの病気で発熱がある)の患者は拒否されやすいが,高橋病院では、駐車場にテントを2つ設置して、発熱外来を設けて,コロナの陽性検査をしています。1日20人~40人受診しています。また,今年の初めから、コロナ病床を設けて,コロナ患者を100人受け入れています。主に中等症で重症もうけいれるとのことです。高橋会員とお話をして,大変な決断をしましたねと言うと,「そうしないではすまないからです。」いつものように,気負うことなく,タンタンと言っていました。神戸市第2次救急病院協議会の会長さんなので,会長が率先して受け入れることによって受入を促すということだと思います。やや心配で立ち入ったことをうかがいましたが,陰圧機,ゾーニングなどの費用は,補助金も出ているが,かなりの負担だったようです。患者は減少しましたかと聞くと,「まあそれはありますね。」。医師7人,看護師50人いるとのことですが,辞めた人はいましたかと聞くと,「それはいなかったですね。」とのことです。高橋会員の使命感,きちんとした対策,信頼によるものと思います。
いずれおさまったら、卓話をしていただきたいですね。
 この高橋会員の社会貢献には、私どもは気がつかなかったのですが、気がついた団体がありました。当クラブの親クラブの神戸西ロータリークラブです。この高橋会員の活動に対して、感謝状と、支援として400食のカレーを贈られました。達筆の立派な感謝状です。西クラブの斉藤満知子会長にお礼を申し上げたところ,先日、蒙古襲来の卓話をしてくださった、西クラブの笹倉会員の提案で,そのような地域貢献をしているならとすぐに動いたそうです。笹倉会員が当クラブの寄神正文会員に連絡してくれました。寄神さんご連絡ありがとうございました。
 高橋会員の活動は、職業を通じた社会貢献であり、職業奉仕というロータリーの理念に一番合致する活動です。大変立派であり、うれしいお話です。おめでとうございます。
 私たちも勇気づけられました。もうしばらくの辛抱です。私たちも職業奉仕しながら,頑張りましょう。

幹事報告

1 ガバナー事務所より
米山記念奨学セミナー開催方法変更のお知らせが届いております。
日時:9月12日(日)
  受付開始13:30~13:50
  セミナー 14:00~16:00頃
  開催方法:Zoomによるオンライン開催
      
2 本日例会後、理事会を開催しますので、理事の方々はご出席お願いします。

3 今月のロータリーレートは1ドル110円です。

卓話

「 宇宙開発競争 第1部 」
当  番  松本 考史 会員

宇宙開発競争は、1950年代から60年代にかけて行われたアメリカとソ連による宇宙開発競争の各分野における一番乗り競争のことをいいます。冷戦を背景としたこの競争は、1969年7月20日にアポロ11号が月面に着陸し、その後3人の宇宙飛行士が無事に帰還したことによってアメリカの勝利に終わりました。今回は2人の天才科学者を軸に、その流れをお話させていただきます。

まず3点ほど、共有しておきたい知識があります。①宇宙空間は上空100km以上と定義づけられていること、②地球の重力に反して宇宙に留まり続けるためには、秒速7.9km(大阪から東京まで1分で行けるスピード)で飛ぶ必要があること、③弾道ミサイルとロケットは搭載する物が違うだけで、基本的には同じであること、の3点です。 これらの知識は、宇宙開発の難しさと歴史を理解するために重要です。

【ジュール・ヴェルヌの「月世界旅行」】
19世紀後半、フランスのSF作家ジュール・ヴェルヌは「月世界旅行」を出版しました。当時の最新の科学知識に基づいて書かれたこの物語では、地面に垂直に掘った穴を大きな大砲として利用し、人が乗った砲弾を月へ向けて発射することで月に辿り着きます。
この物語は「もしかしたら本当に月へ行けるのではないか」「月へ行く機械を作ってみたい」と多くの人々の想像力を掻き立てました。その中に、後に「ロケットの父」と呼ばれる3人(ツィオルコフスキー、オーベルト、ゴダード)がいました。この3人が残した技術や理論がその後の宇宙開発の基礎となり、後の人々に多大な影響を与えていきます。

「ロケットの父」の一人、ロバート・ゴダードは、1926年に世界初の液体燃料ロケットを飛ばすことに成功します。もともとロケットは11世紀の中国で兵器として利用されるなど、古くから存在していましたが、これらは固体燃料によるものでした。固体燃料は着火すると燃え尽きるまで止まりませんが、液体燃料は途中で止めたり量を調節したりできるため、精密な制御が可能になります。これにより、ロケットの可能性は大きく広がりました。

【二人の天才科学者】
この液体燃料ロケットを一気に進化させたのが、今日の主役の一人、ヴェルナー・フォン・ブラウン(1912~1977)です。ドイツの貴族の出である彼は、10歳の時、母親から将来何になりたいか問われ、「進歩の車輪を回すことに役立ちたい」と言ったと伝えられています。その言葉は後に現実のものとなりました。13歳の誕生日に天体望遠鏡を買ってもらい、宇宙の虜になった彼は、いつしか月へ行くロケットを作りたいと思うようになります。
ベルリン工科大学在学中、ドイツ陸軍からスカウトを受け(当時のドイツはヴェルサイユ条約で大口径の大砲の開発を禁じられていたため、ロケットに兵器としての可能性を模索していました)、ドイツ陸軍に所属します。周りの人々は「我々は武器を作っているんじゃない」と断ったそうですが、フォン・ブラウンは「民間の金でロケットを作るのには限界がある。陸軍が金を出してくれるなら」とその申し出を受けます。そして陸軍の資金でロケット開発を進め、A-4ロケットが完成しますが、A-4ロケットはその性能に感銘を受けたヒトラーによって、世界初の弾道ミサイル「V-2」として軍事転用されることとなります。
このV-2ロケットはフランスやイギリス、ベルギーなどに向けて約3,200発が発射され、約6,000人の死者を出しました。兵器としての費用対効果は非常に悪い上、地下工場の劣悪な製造環境で10,000人以上の捕虜らが亡くなっています。
1945年、ドイツの敗色が濃厚になってきました。フォン・ブラウンはナチスの親衛隊員でもありましたが、あくまでもロケット開発がしたい彼は、一部の開発チームと話し合い、亡命することを決意します。そして、亡命先に「自由に開発できそうで、資金がある国」としてアメリカを選択します。
大量の部品や研究資料(貨車341両分)を手土産にアメリカ軍に投降、開発チームのうち127名が実際にアメリカに渡りました。
その直後、フォン・ブラウンや中心メンバーが抜けた開発拠点をソ連軍が占領、残された部品や人員を確保しました。その際、分析チームの指揮をとったのが、もう一人の主役、セルゲイ・コロリョフ(1907~1966)です。

コロリョフは小さい頃、まだ珍しかった飛行機を目撃し、飛行士を志します。空への憧れはやがて宇宙へと向かい、26歳でソ連初の液体燃料ロケットの打ち上げに成功します。しかし、31歳の時にスターリンの粛清に巻き込まれ、6年間の強制労働を余儀なくされます。
彼はフォン・ブラウンのライバルとしてソ連の宇宙開発を牽引していきますが、当局の意向により生前は存在を明かされず、単に「設計主任」と呼ばれました。フォン・ブラウンもその存在を知ったのはコロリョフが亡くなってからで、二人の天才科学者はついに一度も会うことがありませんでした。
さて、ドイツから帰国したコロリョフは、入手した部品や資料を元に、V-2のコピーを作り、それを発展させていきます。
このように、米ソの宇宙開発競争は、両国とも、フォン・ブラウンの技術を元に出発することになります。

【米ソの宇宙開発競争】
第二次世界大戦後、アメリカとソ連はそれぞれロケット開発を進めますが、そのスタンスには違いがありました。
アメリカは、陸海空軍がそれぞれ独自にミサイル開発を行いました。戦争の終了に伴い大きく予算が削減された陸軍と海軍、そして戦後新たに組織された空軍は、それぞれ存在感を示し予算を獲得するため、ミサイル開発という新しい分野に手を広げます。また、核兵器をミサイルに載せるという案も当然ありましたが、当時の技術では核弾頭の小型化が難しく、当面はB-29などの戦略爆撃機を利用し、ミサイルに載せるのはもっと小さくなってからでいいのではないか、との考えが主流であり、大型のロケット開発にはあまり乗り気ではありませんでした。また、フォン・ブラウンは陸軍に所属していましたが、もともと敵国ドイツの人間ということもあり、当初はV-2の組み立て・試験飛行を担当するのみで、その実力を発揮させてもらえませんでした。
一方ソ連は、第二次世界大戦で強力な兵器を開発したアメリカと対峙するため、核開発を進めるとともに、「核兵器運搬手段としてのミサイル」の開発に全力を注ぎます。当時の技術では核弾頭の小型化は難しい、と先に述べましたが、ソ連は現状の核弾頭でも搭載できる大型ロケットの開発に早くから注力しました。そして、その陣頭指揮をとったのがコロリョフです。
 
【スプートニク1号とスプートニク・ショック】
1957年8月、ソ連は世界初の大陸間弾道ミサイル「R-7」の発射実験に成功します。もちろん、コロリョフはこれが宇宙空間に物を打ち上げる能力があることを分かっていました。彼は共産党の中央委員会に人工衛星の打ち上げを具申しますが、一度目は却下されます。そこで彼は「恫喝」をします。「ソ連が衛星打ち上げを実現する世界最初の国家を目指しているのか否か」「その歴史的な責任を取れるのか」と。そうして1957年10月4日、世界初の人工衛星、スプートニク1号が打ち上げられました。
この直径58cm、重量83.6kgの銀色の物体は、アメリカ国民に「スプートニク・ショック」と呼ばれる大きなショックを与えました。上空から電波を発し、ラジオでその音を聞くことができ、肉眼でも見ることができたため、その存在を嫌でも意識せざるを得ません。科学大国であるアメリカが、社会主義国家であるソ連に科学技術で先を越されたこと、安全と思っていたアメリカ本土上空を敵国の物体が飛行していることに、「もしあれが核弾頭だったら・・・」という不安と恐怖を植え付ける結果となりました。このことが、アメリカ政府を本格的な宇宙開発に向かわせることになります。

アメリカは、スプートニク1号に遅れること2ヶ月、1957年12月6日に、海軍のヴァンガードロケットにて小型の人工衛星の打ち上げを試みます。全世界の注目を浴びる中、点火されたロケットは1m浮いたところで2秒後に爆発、スプートニク1号のように宇宙から電波を発信するはずだった人工衛星(重量約1.5kg)は転げ落ち、地面から電波を発信しました。ソ連は83.6kgを打ち上げたのに、アメリカは1.5kgも打ち上げられなかった。この大失敗はイギリスを始めとした世界各国のメディアから嘲笑の的になりました。
(flopnik、kaputnik、stayputnikなど、sputnik(スプートニク)をもじった数々の不名誉な名称をつけられました。)
これを受け、やっと陸軍のフォン・ブラウンのチームに打ち上げ許可が降りました。フォン・ブラウンは翌1958年1月31日、レッドストーンロケットにて、アメリカ初の人工衛星「エクスプローラー1号」の打ち上げを見事成功させます。

これらの出来事により、陸海空の各軍がバラバラにロケット開発を進める非効率を認識したアメリカは、その開発を一本化するため、同年7月にアメリカ航空宇宙局(NASA)を発足させます。
 
【有人宇宙飛行】
1961年4月12日、ソ連のユーリイ・ガガーリンがボストーク1号で1時間48分かけて地球を1周し、人類初の宇宙飛行を成功させました。「地球は青かった」という言葉が有名ですが、同時に「周りを見回したが、神はいなかった」という言葉も残しています。これが神やキリスト教文化に対する冒涜と受け取られ、アメリカはソ連に勝たねばならないとの思いを新たにしたと言われています。
その3週間後、5月5日に、アメリカのアラン・シェパードがマーキュリー3号(通称フリーダム7)により宇宙飛行を成功させます。ただしこれは飛行時間15分22秒、途中で高度100kmを少し超えただけの弾道飛行であり、ソ連が行った周回飛行とは大きな差がありました。

【ケネディ大統領の決断】
1961年4月、ケネディ大統領はリンドン・ジョンソン副大統領に「どうしたらソ連に宇宙開発競争で勝てるのか」という旨の質問状を出します。ジョンソン副大統領はフォン・ブラウンらに意見を求めた上、アメリカの豊富な資金力を根拠に「月面着陸と帰還」が妥当であると回答します。これを受け、ケネディ大統領はアポロ計画の推進を決断、同年5月の上下両院合同議会にて、翌年9月にはライス大学で歴史的なスピーチを行い、「60年代のうちに月へ人類を送り込み、無事に帰還させる」ことを国民に約束します。
これにより、アメリカは政府も国民も一丸となって人類の月面着陸に向けて走り出すことになります。

【ソ連の失速とアメリカの勝利】
 ソ連はその後もワレンチナ・テレシコワによる初の女性宇宙飛行、アレクセイ・レオーノフによる初の宇宙遊泳など、続々と実績を積みましたが、1966年1月14日、ソ連の宇宙開発の中心人物であるセルゲイ・コロリョフが亡くなったことにより、少しずつ失速していきます。(コロリョフは大した病気ではありませんでしたが、強制労働時代に受けた傷が元で治療がうまくいかず、亡くなってしまいました)
 アメリカはその後3人の犠牲者を出すなど多くの困難を乗り越えながら開発を続け、フォン・ブラウンが開発した史上最大のサターンⅤ型ロケットにより打ち上げられたアポロ11号は、1969年7月20日、ついにケネディ大統領の約束通り人類初の月面着陸を成し遂げ、その後無事に帰還するという大偉業を達成しました。
 ソ連はアメリカと同じく月面着陸を目指していましたが、大型ロケット打ち上げに相次いで失敗していた折、アポロ11号月面着陸の報を受け、ついに断念しました。
 アメリカとソ連という東西の大国による宇宙開発競争は、アメリカの勝利をもって終結します。

【最後に】
今回の卓話にあたり参考にした書籍の一つ、「月をめざした二人の科学者~アポロとスプートニクの軌跡」(的川泰宣著 中央公論新社)より、あとがきの一文を紹介します。
「20世紀の二大強国を舞台にしてはいるものの、現実には二人の生涯をかけた『宇宙と空への野望』の貫徹そのものであった。一個の人間が幼い頃から心の中に大きな夢を育て、人生のどんな荒波にも屈することのない強い意志を持って生き抜けば、一生のうちにどれほど偉大な事業が達成できるかという見事なお手本を、コロリョフとフォン・ブラウンは示してくれている。」
 振り返ってみると、米ソの宇宙開発競争は、月へ行くことを夢見た2人の科学者が、軍や国家、イデオロギーのぶつかり合いまでも利用して夢を追いかけた壮大な物語として整理できます。ジュール・ヴェルヌの空想から始まった宇宙への夢は、3人のロケットの父、フォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフへと広がり、そして今も多くの人々に受け継がれています。

出席報告

☆細谷 眞弓 出席担当委員

9月 7日の出席者 21名
8月31日の出席者 20名(メイクアップ1名)
8月24日の出席者 20名

委員会報告

☆河南 和幸 米山記念奨学会委員会会長

9月7日、当クラブ事務局において、米山奨学生 劉 永恩(ユー・ヨンウン)さんに、
奨学金授与を行いました。

その他の報告

ニコニコ箱

例会予定

☆2021年9月28日(火)第1335回 ZOOM例会
「 宇宙開発競争 第2部 」
当  番  松本 考史 会員

本日のRCソング・BGM

山﨑弘子 副幹事

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