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週報一覧

No.12  2021年10月5日号

前週の報告①

☆2021年9月28日(火)第1335回ZOOM例会
「 宇宙開発競争 第2部 」
当  番  松本 考史 会員

司  会  髙井 敏郎 SAA
点  鐘  永井 幸寿 会 長

前週の報告②

会長報告

 報道によれば,政府は,9月30日までの緊急事態宣言は延長しない,蔓延防止重点措置も執らないという方向で調整中とのことです。仮にこれが本当であれば,来週以降の例会は,ハイブリットの例会となります。そうなることを祈っています。
 さて,先日眞子さんの婚約者の小室圭さんが,ポニーテールをしていたとか,日本に帰ってきたと報道されました。立場上,何をやっても報道されますね。
 眞子さんの結婚なのですが,これは,当事者の合意だけで成立するのでしょうか。御両親とか皇室会議とかの同意がいるのでしょうか。
眞子さんの場合は,当事者の合意だけで結婚できます。憲法24条に,「婚姻は,両性の合意のみに基づいて成立」すると書いてあります。
あれ,天皇や,皇族は,一般の国民ではないから人権は保障されないのではないのと思う人かもしれません。しかし,人権とは,人が人であるという理由で認められる自由や平等の権利を言います。天皇も皇族も人である以上,人権は保障されます。但し,天皇や皇族は,皇位が世襲であることや,職務の特性から,人権は必要最小限の制約を受けることがあります。
眞子さんは女性で,内親王という身分なので,結婚は自由に出来ますが,天皇や皇族の男子が結婚するには,皇室会議の議を経なければならないと皇室典範という法律に書いてあります(10条)。皇族の男子は天皇になる可能性があるからです。  皇室会議とは誰が構成員でしょう。皇族2名,衆参両議院議長・副議長,内閣総理大臣,宮内庁長官,最高裁長官と裁判官1名の10人の議員で構成します(28条)。
皇族の女子は,天皇及び皇族以外の者と結婚したときは皇籍を離脱します(12条)。眞子さんも皇族ではなくなるわけです。
皇族がその身分を離れるときに支給する一時金は,皇室経済会議の議を経て定める金額とする(皇室経済法6条)。これを「皇族費」と言います。眞子さんは,この一時金の支給を辞退するそうです。そのような先例はないので,大変勇気のある,立派な態度だと思います。
この「皇族費」とは別の「皇族費」として,皇族の品位の保持のために毎年支給する給付金があります(皇室経済法6条)。眞子さんは,皇族ではなくなるのでこの「皇族費」は支給されないことになります。
眞子さんは,新天地で,生活すると言うことです。これからは,大変な御苦労もあると思いますが,是非,幸せなっていただきたいと思います。人の噂も,75日と言いますが,今は,人の噂も75時間と言われます。
お二人の幸せを心からお祈りいたします。

幹事報告

1 歴代会長会の開催日は10月22日(金)に決まりました。詳細はメール等で送付させて頂きますのでよろしくお願いいたします。

2 緊急事態宣言が解除された場合、次週からハイブリッド例会に移行しますので、出席連絡は、ご欠席またはZOOM出席の場合、事務局に金曜日までにご連絡いただけますようお願いいたします。

3 次週、吉岡博忠ガバナー公式訪問ですので、ご出席をお願いいたします。

卓話

「 宇宙開発競争その2 ~アポロ計画 」

当番  松本 考史 会員

 前回の卓話では、1960年代のアメリカとソ連の宇宙開発競争についてお話をしましたが、今回はそのクライマックスであるアポロ計画についてお話させていただきます。
アメリカは1957年から1961年まで、人工衛星打ち上げ、有人宇宙飛行など、宇宙開発競争の緒戦において連敗を喫していました。世界初の弾道ミサイル「V-2」の開発者フォン・ブラウンを擁していながら、その能力を十分に活かしきれていなかったアメリカは、1958年7月にNASAを発足させるなどして体制を整えつつありましたが、第二次世界大戦後国を挙げてミサイル開発に取り組んだソ連になかなか追いつけずにいました。1961年5月5日、アメリカ初の有人宇宙飛行が行われましたが、これは前月に行われたソ連によるガガーリンの地球周回飛行(地球1周、約2時間)に対し、15分間の弾道飛行(高度100kmを少し越えただけ)に留まり、その劣勢は誰の目にも明らかでした。
このような状況を受け、当時のケネディ大統領は、ジョンソン副大統領に意見を求めた上、「月面着陸と帰還」を国家プロジェクトとして推進することを決定します。1961年5月25日の上下両院合同議会、翌1962年9月のライス大学のスピーチにおいて、「1960年代のうちに人類を月面に着陸させ、帰還させる」ことを表明します。これによりアポロ計画が一気に進むことになります。

【3つの飛行方式案】
 約38万km離れた月へ行く、という目標は明確ですが、どのように月へ行くかは全くの未定でした。弾道飛行を1度終えただけの現状から、9年で実現させるための方法を考えなければなりません。
 飛行方式は、主に3つ提案されました。
①直接上昇方式
 1機の宇宙船で直接月面に着陸し、そのまま離陸、地球に帰還する方式
  長所:シンプル
  短所:250m級の超巨大ロケットが必要
②地球軌道ランデブー方式
 宇宙船を分割して複数のロケットで打ち上げ、地球の軌道上で組み立てて月へ向かう。その後は直接上昇方式と同じ。フォン・ブラウンはこの方式を支持していた。
  長所:小型ロケットで実現可能・将来的に他の天体への飛行にも応用可能
  短所:複数のロケットの打ち上げが必要なため、高コスト
③月軌道ランデブー方式
 月面着陸時に実際に着陸する月着陸船と月軌道にとどまる司令船とに分かれ、帰還時には月軌道で合流して一緒に地球へ帰る方式
  長所:月からの打ち上げ重量を最小化・一度の打ち上げで済むため、低コスト
  短所:地球から遠く離れた月軌道上でのランデブーに懸念

これらのうち、当初は②地球軌道ランデブー方式が優勢でしたが、技術者のジョン・フーボルトは③月軌道ランデブー方式を主張し、周りの同僚を説得しながら、最終的にはNASAの副長官に手紙を出し、組織を動かしました。そして、1962年6月、各種機材を小型軽量化できること、60年代のうちに月へ行くという時間的制約を考慮して、③月軌道ランデブー方式に決定しました。

【必要機材】
 飛行方式が決まれば、必要な機材は自ずと決定します。月着陸船と司令船・機械船、これらを打ち上げるロケットです。
 サターンⅤ型ロケットは、フォン・ブラウンが開発しました。全長110.6m(ポートタワーとほぼ同じ)、重量2,812t(うち93%は燃料)、第1段のF-1エンジン5基の合計馬力は約1.6億馬力(1秒あたり13tの燃料を消費)というもので、1967年の初飛行から54年が経過する今でも史上最大・最強のロケットです。イーロン・マスクのSpace X社が120m級のロケットを作っていますが、まだ実際に飛行しておらず、記録は破られていません。
 マーキュリー計画で1960年に打ち上げられたレッドストーンロケットの全長は25mでしたが、1967年初飛行のサターンV型は110.6m、実に7年で4倍強のサイズになっており、いかに巨大な資金と技術力が注ぎ込まれたかを窺い知ることができる好例となっています。
 月着陸船は宇宙空間で司令船+機械船とドッキングし、2人の飛行士が月上空で乗り込んだ後に切り離されます。上昇段と下降段からなる虫のような外観をした乗り物で、着陸時には下降段のエンジンを使ってゆっくり降下し、離陸時には上昇段と下降段が切り離され、上昇段のみが上空で待つ司令船+機械船と合流します(下降段は月面に残されたまま)。ドッキングした後、2人の飛行士は司令船に移り、不要となった月着陸船の上昇段は月面に投棄されます。
月着陸船はグラマン社が開発を行いました。グラマンは第二次世界大戦中に多くの艦上戦闘機を生み出していますが、空母の狭いスペースを有効に使うため主翼を折りたたむ機構がついていること、また、甲板にドスンと降ろすため頑丈な主脚が必要なことなど、月着陸船に要求される項目を得意としていたことが評価され、契約を勝ち取ります。この時、開発主任となるトーマス・ケリーは35歳でした。適任であれば年齢に関わらず社運を賭けたビッグプロジェクトを任せるというところに、アメリカの強さの一端を垣間見た気がします。
 また、月着陸船は徹底した軽量化が図られました。「月の重力は地球の6分の1だから、立ったままで大丈夫だろう」という考えのもと、座席を廃止しました。立っていれば顔が窓に近くなり、小さな窓でも視界を確保できるため、窓の小型軽量化にも寄与しています。また、2人の飛行士が乗る上昇段の外壁は0.3mm厚のアルミ板(製造過程でドライバーを落としたところ、床まで抜けましたが、「月面では6分の1重力だから大丈夫」となったそうです)であり、下降段はフレームにマイラーフィルムと呼ばれる0.003mmの膜を幾重にも重ねて作られています。

【アポロ11号】
 アポロ11号はニール・アームストロング、バズ・オルドリン、マイケル・コリンズの3名を乗せ、1969年7月16日に打ち上げられました。フライトは概ねスムーズに進行しましたが、着陸直前、アームストロング船長が眼下に大きな岩とクレーターがあることに気づき、咄嗟に手動操縦へ切り替え、回避します。月着陸船は重心位置が高く、平坦な場所でないと転倒してしまうため、安全な着陸が可能な平地を探す必要がありました。予定外の移動で残り燃料が刻々と減る中、新たな着地点を探します。
 そして7月20日東部標準時間午後4時17分42秒、静かの海(ウサギの顔のあたり)に着陸しました。「ヒューストン、こちら静かの海基地。イーグル(着陸船の名前)は舞い降りた」という交信が記録に残っています。この時、燃料は16秒分しか残っていませんでした。
 着陸後しばらく睡眠と休憩を取り、午前2時56分(日本時間午前11時56分)、アームストロング船長がハシゴを降りて月面に一歩を踏み出します。その時アームストロング船長が発した「That’s one small step for (a) man,one giant leap for mankind.」((一人の)人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ)という言葉は、人類史上初めて月に降り立った人間の言葉として、多くの人々に記憶されています。
 ここに「60年代のうちに月へ行く」というケネディ大統領の約束は、8年の時を経て見事に達成されました。
 この月面歩行の様子は世界中で6億人を超える人々がテレビで視聴しました。NHKの最高視聴率は68.3%、当日中の他局の番組を含めると日本では91%の人が見たと言われています。フォン・ブラウンは、月軌道ランデブー方式を主張したジョン・フーボルトに「ジョン、君のおかげだ。ありがとう」と言ったそうです。
 このように大成功を収めたアポロ11号のミッションでしたが、アポロ計画推進を決定したケネディ大統領は見ることができませんでした。1963年に凶弾に倒れたためです。3人の飛行士は、地球帰還後のパレード等の後、ケネディ大統領の墓前にミッション成功を報告したと言われています。

【アポロ11号とロータリー】
 先輩方は既にご存知かもしれませんが、ニール・アームストロング船長はオハイオ州のワパコネタクラブに属するロータリアンでした。また、月を去る時、バズ・オルドリンがアメリカ国旗などの記念品と一緒に、月面に「四つのテスト」のピンを置いてきているそうです(このエピソードは「奉仕の一世紀 国際ロータリー物語」に掲載されているとのこと)。今現在も月面に「四つのテスト」があると思うと、月を見るたびになんだか背筋が伸びそうな気がします。

【アポロ12号】
 アポロ12号は11号に続き、2度目の月面着陸を果たしました。11号のアームストロング船長の歴史的なコメントに続き、ひょうきんな人柄で知られているピート・コンラッド船長はどんなコメントを残すのか注目されていましたが、「やった!ニールにとっては小さな一歩だったが、俺にとっては大きな跳躍だった!」とコメントし、地上の家族を呆れさせました。(彼はアポロ計画の飛行士の中で最も背が低かった)
 また、予備搭乗員が、いたずらとして宇宙服の袖口につけるチェックリストの中にプレイボーイ誌のグラビアの縮小コピーを貼り付けており、ピート・コンラッドは見つけたときに大爆笑したそうです。人類で初めて月面にポルノを持ち込んだエピソードとして残っています。
 このような楽しいエピソードが目立ちますが、1970年の大阪万博で多くの人が見た「月の石」はこの12号が持ち帰ったものであり、ミッションそのものは大きな成果を収めました。

【アポロ13号「成功した失敗」】
 アポロ13号は、「アポロ13」という映画でよく知られるように、宇宙空間での爆発事故にも関わらず、想定外の事態にうまく対処し奇跡的に生還したことで、「成功した失敗」と言われています。
「13」は不吉な数字として知られていましたが、「この科学時代にそんなジンクスは関係ない」とばかりに、1970年4月11日、あえて13時13分に打ち上げられました。
飛行士はジム・ラヴェル、ジャック・スワイガート、フレッド・ヘイズの3名。4月13日、打ち上げの55時間55分後、地球から32万km離れた地点で機械船の酸素タンクが爆発し、月着陸を断念せざるを得なくなりました。原因は整備時に外し忘れた1本のネジと言われています。
 機械船の被害状況は不明で、エンジンを使うと船体全部が爆発する可能性があったこと、地球の大気圏再突入の際に司令船を使用するために電力を温存する必要があることなどの理由から、乗組員は全員月着陸船に移動し、月着陸船のエンジンで地球へ戻ることになりました。想定外の事態のため、電力、二酸化炭素、再突入など次々と問題が発生しましたが、地上クルーと飛行士の連携によりそれらの問題をクリアし、世界中が見守る中、4月17日に奇跡的に帰還しました。

【ジーン・クランツ】
 アポロ13号を無事に帰還に導いた立役者が、爆発事故が起きた当時のフライト・ディレクター、当時36歳のジーン・クランツです。彼は混乱する管制センターで「Let‘s everybody keep cool. Let’s solve the problem.」(みんなクールで行こう。そして問題解決に取り組もう)「but let‘s not make it any worse by guessing.」(ただし憶測によって事態を悪化させることはやめよう)と呼びかけ、卓越したリーダーシップで現場の知恵を結集し、アポロ13号を帰還へと導きました。
 このジーン・クランツが後に示した、「仕事の10か条」をご紹介します。

1.Be proactive(積極的に行動せよ)
2.Take responsibility(自ら責任を持て)
3.Play flat-out(目標に向かって脇目を振らず、速やかに遂行せよ)
4.Ask questions(分からないことは質問せよ)
5.Test and validate all assumption(考えられることはすべて試し、確認せよ)
6.Write it down(メモをとれ)
7.Don’t hide mistakes(ミスを隠すな)
8.Know your system thoroughly(自分の仕事を熟知せよ)
9.Think ahead(常に先のことを考えよ)
10.Respect your teammates(仲間を尊重し、信頼せよ)

基本的なものもありますが、非常に大事なことが凝縮されていると感じられます。

【その後のアポロ計画】
 当初20号まで予定されていたアポロ計画は、ベトナム戦争の泥沼化などによる予算削減に伴い18号以降はキャンセルとなり、1972年12月の17号で最後となりました。14号から17号のミッションは全て成功しています。
 14号ではアラン・シェパード船長が「なぜか手元にあった」6番アイアン(内緒で持ち込んだ上、宇宙服で使えるよう改造済み)で、これまた「なぜか手元にあった」ゴルフボールを打ち、「何マイルも飛んでいったぞ!」と喜ぶ様子が全世界にテレビ中継されました。これを見たゴルフの総本山R&A(ロイヤル・アンド・エンシェント・ゴルフクラブ)からのメッセージでは、「偉大なる業績と、無事帰還されたことに対し、心よりお喜び申し上げます。しかしながら、ゴルフのエチケットに関しては遺憾の意を表しておきます。どうか、ルール・ブックのマナーに関する項目6をご参照ください。『バンカーを離れる前に、プレーヤーは自分や近くにある他のプレーヤーのつくった穴や足跡を入念に埋め、平らにならしておくべきである。』とあります。」とあったそうです。このようにアポロ計画は多くのエピソードと輝かしい実績を残して終了しました。

【総括】
・6回の月着陸により12人のアメリカ人が月面を歩行
 (最後の月着陸は1972年12月。それ以来月へ行った人間は皆無)
・持ち帰った月の石は計382kg
・死者3名(アポロ1号の司令船火災事故)
・かかったコストは、現在の貨幣価値にして約13兆円( 1961年~1972年)、関わった技術者は40万人
・部品点数は400万点超(99.9999%の信頼性が求められた)
・1969年当時、アポロ計画の技術者の平均年齢は26歳
・ソ連との冷戦が無くても人類は月へ行った?
・ケネディ大統領の「60年代のうちに」という期限が無くても?

【最後に】
 この巨大プロジェクトから何を学ぶのか。成功要因としてはトップの決断、潤沢な資金、ライバルの存在、締切効果など様々あると思いますが、このコロナ禍の真っ只中において最も私の印象に残ったのは、成功した数々のミッションよりも、想定外の事態に巻き込まれながらも奇跡的なリカバリーを果たしたアポロ13号の事故と、ジーン・クランツのリーダーシップです。
 1994年テレビ朝日制作のドキュメンタリー番組、「アポロ13号奇跡の生還」エンディングより、プレゼンターの立花隆氏の言葉を紹介します。
「私達の社会も、これから大きな危機に見舞われることが何度かあると思います。  その時、ジーン・クランツのように、『クールで行こう。そして問題解決に取り組もう』とみんなで言い合えるような社会でありたいと思います。」

出席報告

☆細谷 眞弓 出席担当委員

9月28日の出席者 20名
9月21日の出席者 17名
9月14日の出席者 19名

委員会報告

その他の報告

ニコニコ箱

例会予定

☆2021年10月12日(火)第1337回例会
「 米山月間に因んで 」
スピーチ 米山奨学生 劉 永恩 さん
当  番 米山記念奨学会委員会

☆2021年10月19日(火)第1338回例会
「 会員卓話 」
当  番 紀伊國谷 隆

本日のRCソング・BGM

山﨑弘子 副幹事 yamazaki-law@eagle.ocn.ne.jp

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