2021/8/24・No.06

☆2021年8月24日(火)第1330回
「 zoom例会 」

☆2021年8月31日(火)第1331回 zoom例会


☆2021年8月17日(火)第1329回
 ハイブリット例会
「 神戸のルーツ 兵庫津の魅力 第1部 」
スピーチ  一般社団法人 よみがえる兵庫津連絡協議会
 歴史アドバイザー 髙松 良和 氏  礒野 和久 氏
当  番  國田 正博 会員

司  会  髙井 敏郎 SAA
点  鐘  永井 幸寿 会 長

ロータリソング
  ソングリーダー 岩﨑 重暁 親睦活動委員
「 われは海の子  」

BGM
「 A Whole New World 」
「 My One And Only Love 」
「 Silver Balloon 」
ピアノ演奏 森田 純子 さん

山﨑弘子 副幹事

会長報告 ・こんばんは。
 過去にないほどコロナの蔓延が起きています。ロータリーは,ハイブリッドでやっており,また,ワクチンの接種も進んでいると思いますので,直接参加されるかどうかは皆様のご判断ということになりますが,生命身体の安全が一番重要ですので,くれぐれも,無理はなさらないようにお願いいたします。
コロナの法律の制度はどうなっているのですかとよく聴かれるので、ちょっとお話しします。決して政治の話ではなく、コロナについての法律制度の話です。

・政府や自治体は、もっぱら国民に自粛に求めていますが,自治体が医療体制を整備する法律はないのでしょうか?
 あります。都道府県知事は、感染症で医療機関が不足する時は、臨時の医療施設を設置して医療を提供する義務(新型インフルエンザ対策特別措置法31条の2)があります。そのための、土地、建物の所有者の同意を得て使用出来ます。緊急事態宣言があるときは同意を得ないでも使用できます(49条)。
 但し、法律があれば当然に出来るわけではありません。平常時から自治体は医師会、大学病院、保健所等と連携することが必要です。その規定もあります(3条)。

・日本はベッド数は世界一ですが,コロナ病床はわずか1%で、イギリスの20%、アメリカの10%に劣ります。コロナ病床の受入を強制できないのでしょうか? 
 できます。都道府県知事は医療従事者に対する従事要請ができるので,コロナの患者を受け入れてくださいと要請出来ます。また,正当な理由なく受け入れないときは従事指示ができます(31条)。これは強制です。但し罰則はありません。
もっとも、コロナ患者は簡単に受入出来るものではなく,通常の医療の提供が出来なくなる、専門性がある、機材・看護師含めたスタッフがいない等の問題がありますから,前記の関係機関との調整が必要です。これについては,国や自治体の資金支援の規定もあります。
自治体や国には法律に従って,早く医療体制を整えて欲しいです。
幹事報告 1 ZOOMにおいて、報告者の声を明瞭に拾うことを目的として、配信用マイクを本日から設置いたしました。
  
2 ガバナー事務所より
①8月23日(月)相生ロータリークラブ、8月28日(土)尼崎南ロータリークラブ、9月12日(日)神戸須磨ロータリークラブ実施の地区補助金プロジェクト一般見学のご案内が届いております。詳細は、幹事または事務局にご確認ください。
②9月12日(日)開催の米山記念奨学セミナーのご案内が届いております。入会3年未満の会員の方にもご案内いただきたいとの事です。詳細は、幹事または事務局にご確認ください。

3 令和3年7月熱海豪雨災害支援寄付金について、寄付金は5万円とし、会員一人1000円を徴収し、残りをニコニコ(社会奉仕)から補填すると理事会で承認されましたのでご協力よろしくお願いいたします。

4 まん延防止の措置により、歴代会長会の開催を9月以降に延期しますが、9月に解除される見込みで開催日のアンケートをメール等で送付させて頂きますのでよろしくお願いいたします。

5 9月14日(火)に矢坂ガバナー補佐の「吉岡ガバナー公式訪問事前クラブアッセンブリー」を行いますので、理事・関係役員・各委員長・3年未満の会員の方はご出席をお願いいたします。ご欠席の場合には必ず代理の方をお立て頂き、ご返信は8月31日(火)までに神戸中ロータリ―クラブ事務局までお願い致します。

卓 話

「神戸のルーツ 兵庫津の魅力」
スピーチ  一般社団法人 よみがえる兵庫津連絡協議会
      歴史アドバイザー 髙松良和 氏  礒野 和久 氏
当  番  國田 正博 会員

 よみがえる兵庫津連絡協議会は、神戸のルーツである兵庫津の歴史的を学び継承し発信する会です。本日は、協議会の歴史アドバイザー髙松から兵庫津の魅力をお話します。プロジェクターを操作してくれる歴史アドバイザーの礒野和久さんは将棋の達人です。

[天平時代~大輪田の泊]
 瀬戸内海海上交通は古くから盛んでしたが、飛鳥・奈良時代には船が小さく、航海術も未発達で昼間しか航行できなかったので、長距離の航海には、一日の航続距離ごとに夜間安全に船を係留する泊が設置されていました。兵庫県には、河尻泊、大輪田泊、魚住泊、韓泊、室生泊という摂播五泊があります。大輪田泊は難波から二番目の泊です。
 741年(天平13年)には行基が大輪田泊を整備したことが「行基年譜」に書かれています。大輪田泊が歴史に登場する最初です。
 行基(668年~749年)は薬師寺で修業しました。当時の仏教は国家のための教えであったので、民衆への宗教活動を行った行基は朝廷から弾圧を受けました。行基はそれでも弟子たちと行動し社会貢献活動を行いました。蓮池(長田区)、昆陽池(伊丹市)などは行基によって築造されたと伝えられています。大輪田泊の修築もその一つです。朝廷はのちに彼らの勢力を無視できなくなり、東大寺大仏造営にその勢力を利用しました。行基は773年(天平15年)に日本で最初の大僧正に任じられました。当時の僧の地位は国家が認めるものだったのです。近鉄奈良駅を出たところに行基菩薩像があります。

[平安時代]
 804年、第4回遣唐使が大輪田泊を出航しました。この時の正使は最澄、下の位で空海が四隻の船で乗り出したのです。最澄は翌805年に帰朝した港、大輪田泊で民衆を集めて説法を行い、その場に能福寺が建立されたと言われています。天台宗総本山比叡山は823年(弘仁14年)嵯峨天皇の勅により延暦寺と名付けられました。兵庫の能福寺は同じ天台宗ですが、総本山延暦寺より18年古いお寺ということになります。

 空海は唐で密教を修めて806年に帰朝しました。当時の渡航は命がけであったので、空海は出発前に山に入って安全祈願の修法を行い、そのおかげで難破しかけたときに龍が現れ、龍に導かれて無事唐に渡れたといわれています。彼は2年後の806年に帰朝し、出発前の安全祈願地で感謝の法要を行いました。現在、出発前と後に訪れた山は再度山(ふたたびさん)と呼ばれ、修法の場には祠が建てられ、修法が原(しおがはら)と呼ばれています。
 空海は唐から木像を持ち帰り、山頂のお寺に祀りました。木像はお釈迦様のお母さん、摩耶夫人の像だったので、天上寺のある山は摩耶山と呼ばれています。

[平安時代末期]
 平安時代の日本は遣唐使を廃止し準鎖国のような状態でした。外国の船は博多までとされ、瀬戸内海に入ることは許されなかったのです。平清盛は日宋貿易推進のため、宗船を、瀬戸内海を通り大輪田泊まで入れました。外国嫌いの当時の朝廷にとっては驚天動地のできごとでした。
 奈良時代からの大輪田泊は、現在の清盛塚の近辺にありました。この辺りは松原と呼ばれ、水深が浅く、大きな宗船を乗り入れるには不適当だったので、清盛はその北西に新しい大輪田泊を築造します。
 新しい港は南東の風波を真正面から受けるため、清盛は船を風波から守るため沖合に日本最初の人工島を造成します。石にお経を書いて沈めたのでこの島は経ケ島と呼ばれます。
 平家物語では、経ケ島は南北30丁とされています。悪天候で造成に苦慮したとき、陰陽師から一丁毎に人柱をと提案され、生田川に関所を設け、30人の旅人を人柱にしようとしたところ、小姓の松王丸という少年が、自分が30人の代わりに人柱になると申し出て、石棺に入って沈んだという話が述べられています。
 清盛は日宋貿易により平家の繁栄を支える蓄財に成功しました。清盛のエピソードを伝える兵庫津の史跡は、清盛塚、能福寺、真光寺、和田神社、金光寺、来迎寺、福海寺などがあります。

[鎌倉時代・室町時代~大輪田の泊から兵庫津へ]
 鎌倉時代になると、この地は兵庫津と呼ばれるようになりました。「泊」とは小さな港、「津」は大きな港という意味です。清盛が港を大きくしたことで泊から津に変ったようです。兵庫津は日明貿易、勘合貿易の拠点として栄えました。

 鎌倉時代末期、幕府により隠岐の島に流された後醍醐天皇が島を脱出し京へ向かいます。途中、兵庫津の福厳寺に滞在され、そこへ、鎌倉幕府が新田義貞に滅ぼされたという報せが届いたので、後醍醐天皇は楠木正成に守られて京に戻ったと伝えられています。湊川神社の祭のパレードはこの故事に則っています。

 応仁の乱の3年目(1467年)、東軍と西軍が兵庫津で戦い、兵庫津は壊滅状態となります。ここから約100年間、兵庫津は日本史に現れません。この間に畿内の国際貿易港の役割を果たしたのは、泉州の堺です。キリスト教や鉄砲の伝来は堺からでした。

[織豊時代]
 花隈城は信長の命で荒木村重が築いた城ですが、村重が信長に離反したため池田恒興に攻められ落城しました。信長は恒興に、港を管理するため兵庫城の築城を命じます。のちに姫路城を大修築する池田輝政(恒興の子)も16~18歳で築城に参加しました。現在残っている区角割はほぼこの頃に形成されました。兵庫城は短期間豊臣秀次が領有し、片桐且元が代官として管理しました。
 元禄絵図には兵庫城は天守閣がある三層の城として描かれていますが、2011年からの中央卸売市場跡地の調査により天守遺構、石垣、馬出、等が発掘され、元禄絵図どおりの城であったことが窺えます。
 
[江戸時代]
 兵庫津一帯は尼崎藩に領有され、奉行所が置かれました。一方、幕府は大型船の建造を禁止しました。
 1609年(慶長14)500石以上の船を没収し、建造を禁止
 1635年(寛永12)武家諸法度17条「500石以上の船停止のこと」
            西国大名は船で紀伊半島を東へ超えてはならない
 1638年(寛永15)商船に限っては規制を緩和
 1639年(寛永16)北風彦太郎が加賀藩の用命で米100石を北陸から
            大阪に運ぶ。北前船の始まり。
 この後、年貢米の搬送のため、海上輸送が発達し、河村瑞賢により東回り航路(1670年寛文10)、西回り航路(1672年寛文12)が開かれました。
 江戸後期1769年(明和6)には、上知令により、兵庫津は尼崎領から天領になりました。これは、長崎奉行石谷淡路守清昌が、任地との往復の際に兵庫津の隆盛ぶりに着目し幕府に進言したからと言われています。

[北前船と豪商]
 北前船は江戸時代、酒田から上方、のちに北海道から上方への日本海海運で活躍した買い積船です。買い積船とは、船主が商品を買い、それを売ることで利益を上げる廻船です。
 高田屋嘉兵衛は江戸後期に活躍した淡路島出身の廻船商人です。当時としては最大級の千五百石船の辰悦丸を入手し、蝦夷地まで進出し、幕臣の依頼により択捉航路の開拓も行いました。ゴローニン事件に巻き込まれロシアに拿捕されカムチャッカに連行されましたが、日露交渉の間に立ち事件解決に尽力しました。司馬遼太郎の「菜の花の沖」は彼を描いた小説です。西出町稲荷神社に献上灯篭があります。
 工楽松右衛門は江戸中期に活躍した高砂出身の廻船商人です。海上土木用の岩釣船、杭打ち船などを発明しました。函館には船たで場(船底を焦がして貝やフナムシが付くのを除去する作業所)を建設しました。択捉島には幕府の命により堅固な防波堤を築造しました。また、彼が開発した厚手で大きく丈夫な帆布、松右衛門帆は全国に普及し北前船をはじめとする海運に貢献しました。当時、新造船一隻1億円とすると帆は5000万円とされています。松右衛門は様々な発明・業績により幕府から工楽の姓を贈られました。八王寺に顕彰碑があります。

 幕末から明治初期にかけて、西郷隆盛、アーネストサトウ、将軍家茂、将軍慶喜、勝海舟、伊藤博文らが兵庫を舞台に活躍しています。彼らのことはまたの機会にお話ししたいと思います。

出席報告

☆寄神 裕佑 出席担当委員代理

8月17日の出席者 26名
8月 3日の出席者 28名
7月27日の出席者 27名

委員会報告

☆松本 考史 親睦活動委員長

 本日のゲストは、一般社団法人よみがえる兵庫津連絡協議会会長高田誠司さん、同会歴史アドバイザーで本日のゲストスピーカー髙松良和さん、同会歴史アドバイザー礒野和久さんです。どうぞごゆっくりお過ごし下さい。

その他の報告

☆チョット一言 平山 一哉 会員

ニコニコ箱

☆藤定 真由美 副SAA

山本裕一郎  さん  平山さん 東京オリンピックおつかれ様でした。
國田 正博  さん  本日卓話当番です。よろしくお願いします。

例会予定

☆2021年9月 7日(火)第1332回 ZOOM例会

本日のRCソング・BGM